けろけろの考えごと

無駄な思考もいつかは再利用できると信じて

刺激のない日々に慣れたほうが人生はより豊かになる

コロナの第5波が収まり、都内感染者が100人前後だった年末年始(年始には200人を超えていたが)に社会人の仮面を脱ぎ捨てた私は、仕事という呪縛により日本各地に散らばった地元の友人たちが久しぶりに集う忘年会に連日連夜参加していた。

あまりに色んなグループへと顔を出してはお酒を酌み交わしていたため、時の流れの速さよりもお金の減り具合のほうが1万倍速く年始早々発狂しそうになったが、年に数回しか会えない友人たちと楽しく時を過ごせるのは、決してお金には変えられないプライスレスな時間であった。

無事三が日が過ぎてまたいつも通りの日常が戻ってきた。(幸い年末年始に遊びまくった友人たちから体調の不良は聞かない。)

が、まだそれから1ヶ月も経とうとしないのに、毎日がつまらない。

年末年始があまりにも楽しすぎたのか、週5で働いて土日は家にいるかカフェにいるかの普段の日常があまりにも無味乾燥でとても苦痛だ。

仕事終わりにも休日にも晩御飯を作るのも億劫。

年始にパソコンを新調したのにパソコンに触れるのも億劫。

年末年始にボコボコにやられた米国株の含み損を眺めるのも億劫。

だからといってソファに寝っ転がりながらスマホを弄るだけでは本当に腐りそうだから、ここ数日はもっぱら読書をして過ごしている。

その中で半年くらい積読状態だった本を思い出して読み始めた。


それが「迷いを断つためのストア哲学」だった。

ストア哲学とは、古代ギリシアで生まれたゼノンを学祖とする実践的な哲学だ。

要は、自分でコントロールできるものとコントロールできないものと分けて人生を楽しく幸せにしようという哲学だ。

本のタイトルにあるように「迷い」、例えば自分ではどうしようもできない不安や悩みを不用意に抱えないようにするためにとても役に立つ哲学である。

しかし、日々無味乾燥な砂漠状態の日常を送る自分は考えた。

ストア哲学は人生を豊かにするための哲学だ。本のタイトルにある「迷い」を無くすためだけのものではい。

自分のように無菌部屋に過ごすような刺激のない生活も、ストア哲学を取り入れれば楽しい生活にできるのではないか。

また、今の自分には楽しい生活にするのにも2通りの方法があるのではないか。

何も刺激がないと思われる生活も、視点を変えるだけで実は様々な刺激ある生活へと変えられる方法。

もう一つが、このブログ記事のタイトル通り、刺激のない生活を悲観せずに慣れる方法。

ストア哲学では自分でコントロールできるものとできないものへと分けることで「アタラクシア」、心の平静を獲得できるとされる。

つまり、視点を変えて刺激ある日々にするよりも、刺激のない毎日でも、脱出ゲーム映画にでるようなホワイトキューブの空間でもつまらないからといって発狂しないようストア哲学を実践して心の平静を取り入れたほうが良いのではないか。

 

そこで私は実践してみた。となるのがブログの鉄則だが、これを考えたのはついさっき5分前のことだ。

そもそも刺激ある毎日のほうが心が疲れる。

それに現代の刺激ある生活はたいていお金がかかる。現に年末年始のように。

それならば、コロナ禍で少し窮屈な生活を強いられるような今の時代でも不平不満を持たないような心にしたほうが絶対に良い。

では、刺激のない毎日でも豊かに生活する方法とはなにか。

まず一つ考えられるのが、世の中で賞賛されている映像作品を観ること。

ネットフリックスやプライムビデオ、YouTubeなど、それほどお金がかからなくても世界中が絶賛した作品を余すことなく観ることができる。

そして作品から得られた感動は、スマホ一つで世界とシェアすることができる。

ドキュメンタリー作品を観たならば、自分が感じた感情や主張をこれまた世界の人々と共有をして知識、教養のアップデートを図ることができる。

また、本だってそうだ。

幸い自分は刺激のない日々でも本は読んでいた。

このように様々な作品を様々な媒体から得られることは、自分でコントロールできる範疇にある。

上記の実践方法もなにもしないで嘆くよりは、自発的に行動しているといえるだろう。

そして気が向いたらまたこのブログを開いて記事を書いてみるのもいいかもしれない。