けろけろの考えごと

無駄な思考もいつかは再利用できると信じて

維持をするとは常に変化し続けると同義だと思う

たまに友人から先生と呼ばれることがある。

なぜなら、私は意識高い系だからだ。

俯瞰的に物事を観察し、中道的な、または左右両方面からの意見を考え、相談事に対して常に複数の解決パターンを与えてあとは本人の意向に委ねるような先導をする。

女性からの相談事に上記のような話を広げたらきっとモテることはできないだろう。

だが、この私の考え方のおかげで友人からはよく相談事にのることがある。

この自分なりの思考回路にたどり着くためには、常日頃様々な事柄に対して色々と考えを繰り広げる思考訓練をしてきたからだ。

また、政治や経済、ガジェット系の時事ニュースにも友人の中では情報通な方ではある。

面白い人、楽しい人かはさておき、友人たちの間では自分は「色んなことをよく知っている人」という立ち位置にいる。

これは自分でも誇りに思うし、これからもそういった人でありたい。

 

だが、今の立ち位置を維持するためには、常に変化を求められるということである。

なんでも知っている人になるためには、常日頃からアンテナを張って情報収集に励まなければならない。

誰からも相談をよく受ける人になるためには、一つの悩み事に対して複数の角度から物事を見つめ、その中でその人にとって好ましい意見を言えるような頭の柔らかさがなければならない。

20歳の頃の最先端な情報は、数年で陳腐な情報へとなり下がる。

20歳の頃に言った最適なアドバイスは、30歳の頃に言うと好ましくないアドバイスになっているかもしれない。

つまり今の自分像を維持するためには、その年々に合わせてアップデートをし続けなければ、他人から見た自分は昔と違う人となって映りうるのだ。

 

それは他人から直接見えることはできない思考だけの話ではない。

容姿の維持のほうがより変化を求められる一つの例ともいえる。

若いころは何もしなくても綺麗な肌を維持できていたかもしれない。

だが、成人して年を取っていくと、何も対策を打たなければシミやしわが増えてくる。

つまり、ありのままの自分でいれば明らかに劣化していくのだ。

今の綺麗な状態を維持するためには、その年相応な自分の姿とは違った変化した状態を作り出し続けなければならない。

また、経済でも同じ話ができるだろう。

日本国内の物価がここ数十年間の間ずっと同じ水準を辿ってきた。

自動販売機で売られる500mlの飲料水はずっと150円のままだ。(最近は160円も多く見受けられるが。)

だが、海外の通貨の価値と日本円の価値を比べたとき、日本円の価値はここ数十年ずっと下がり続けてきた。

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日本円の価値を国際的にみて維持するためには、常に経済成長をし続ける必要があったのだ。

 

維持するとは常に変化し続けると同義であることは明らかであろう。

維持をする、これの意味を見間違ってしまっては、数年後に痛い目を見ることになる。

常に変化をすることに恐れないような自分であり続けていたいと思う。

 

アルコール2時間飲み放題単品2オーダー制で垣間見えた貧富の差

私はお酒が好きだ。

学生時代のアルバイトで稼いだお金のほとんどは、居酒屋の飲み放題で消えたといってもいいくらいだ。

飲み放題は素晴らしい。

なんてったって飲み「放題」なのだから。

学生の少ない稼ぎでたくさん飲むためには、飲み放題のある居酒屋がマストだ。

社会人になってからはお金にも余裕ができ、さらに学生時代に比べ飲みに行く頻度が減ったため、それほど飲み放題にこだわることは無くなった。

だが、年末年始の忘年会、新年会には飲み放題は無くてはならない。

年明け、高校時代の友人たちと久しぶりに集まって飲む機会があった。

もちろん居酒屋で話とお酒に明け暮れるために飲み放題を選んだ。

そのお店は誰もが知る全国チェーンの居酒屋だ。

2時間飲み放題の場合は1人2品の料理を頼まないといけない。

しかも1品税抜き298円以上のものが対象だ。

税込み298円の枝豆やじゃこ天は対象外なのだ。いやらしい。

まあこれはよくあるシステムだ。

その日は5人で入ったため全部で10品頼む必要がある。

早速1杯目を注文し、さて料理は何を頼もうかメニュー表を開いてみんなで考えた。

これはどうか、と私は馬刺しを指さした。

うん、いいと思う。

皆がそう頷く中、1人が呟いた。

「596円か…高いな…」

一瞬何を言っているんだと耳を疑ったが、すぐに理解できた。

高いと呟いた彼は、定職についていなかったからだ。

飲み放題の単品オーダーで料理の値段を気にしていた感覚は、自分はもう学生時代に置いてきた。

学生の頃は選ぶ料理を吟味し、飲み放題を含めた総額を如何に抑えるかを考えることがしばしばあった。

その頃の感覚から考えれば、税抜き298円以上でいいのにも関わらず、それよりも300円も高い馬刺しを頼むのは躊躇するだろう。

彼のひと言は、私を久しぶりに学生時代の感覚を取り戻させた。

だが、私は、いや彼以外はもう定職に就いている。

今の自分たちはその価値観をもう捨てたのだ。

まだ1杯も飲んでいないのに、少し悲しい気持ちを抱いた。

 

お金のことはいいよ、頼みたいものを頼もう、と私たちはフォローをいれて皆すぐに食べたい料理をそれぞれ注文用タブレットへと入力した。

その場と、それからハシゴした居酒屋では彼からは2000円だけもらって残りの金額を4人で割った。

2000円出す彼は少し申し訳なさそうにしていた。

困ったらお互いさまだから、気にすんな。

また飲みたくなったら誘ってくれ、お金がなかったら全部俺が出すから。

そう私は言った。

もちろん本音だ。

自分も学生の頃は、そうやってお金を出してくれた友人がいたからだ。

困ったときに頼れるのが友人というものだと、私は思っている。

そこに貧富の格差なんて関係ない。

むしろ富んでいるならいつも多めに出したっていい。

 

その日以来、彼とは会っていない。

去年はよく夜にドライブに誘われていたが、昨今のガソリン代高騰もあるからか、誘いがなくなった。

ガソリン代だって出すから、俺と話したくなったらまた誘ってくれ。

 

学生時代にコミュニケーション能力を身に着けないと詰む

社会の歯車となって早2年。

社会人ペーペーの私にも後輩というものも存在する。

数は少ないが、皆慣れない日々の業務に励んで取り組んでいることは目に見えて分かる。

とても期待はしている。

が、その中でも少し変わった子がいることも大きな組織というものだ。

どう変わっているかというと、端的に言うとコミュニケーション能力が足りないのだ。

ここでいうコミュニケーション能力とは、いわゆる他者と円滑に会話をし、相互の意思疎通が滞りなく出来ることを指そう。

また、彼自身とても変わった思考をしている(っぽい)。

月1で会社の若い者で集まって研修を行ったり、コロナが落ち着いていたころに業務後に会食をしたりしたが、彼の会話はよく明後日の方向を向いている。

いきなり会話の内容がすっ飛んで(サイレントで)別の話題に移っていたり、研修の課題発表が全くお題に沿っていなかったり、それらをみんなでツッコんで笑うことはできるがこれが業務でとなると話は別だ。

私のいるIT業界は技術職だからコミュニケーション能力が低い人も一定数存在するとは言う。

だが、お客のいう要望を聞き取り開発や修正に反映する、チーム内でお互いのタスクを確認しあうなど、日々他者と会話をする機会はたくさんある。

彼もまた技術職っぽい見た目をしているが、まだ社会人ペーペーの彼はまずは他者と円滑に会話をする能力が欲しい。いや、なくてはならない。

 

もう彼も社会人となり1年となる。

しかしなぜ彼はいまでも研修の課題の内容がぶっ飛んでいるのか、とても根本的な問題だが、そもそもコミュニケーション能力を学んでこなかったからだろう。

 

私個人の話だが、私はコミュニケーション能力はあるほうだと思う。

小学生の頃はとてもシャイな性格だったときもあったが、少年野球団に入りその後も野球を通して年の近い先輩後輩、そして大人との接し方を学び、学校という組織でも友人は多くできた。

学校という狭い空間で心地よく生活するために先生に対して媚も売ってきた。

その土台があったためか、今は直接的な先輩のいない環境でスムーズにお客とダイレクトで話しながら仕事が出来ている。

それではなぜ彼は円滑なコミュニケーションができないのか、

それは学生時代に年の違う人たちとあまり接してこなかったからだ。

彼は学生時代に大きな組織のようなものに所属してこなかった。

少なくとも友人はいるようだが、多数と遊ぶということは無いらしい。

どんな相手でも、どんな多数の人たちがいる中でも、そのときの話題に沿って円滑に会話を進めるという機会に遭遇してこなかったのだ。

そのまま社会人となっていざ業務の会話をしなさいといっても、それはとても酷なことは私にも分かる。

今行われている新人研修も、基本的な社会のマナーから組織というものの理解、そして自分自身や業務でのプレゼンテーションの練習をしたが、まず彼が取り組むべきことは会話のキャッチボールの練習だ。

しかし、そのようなことをマンツーマンで指導する会社などは存在しない。

業務で経験を積んで慣れろ。

そう多くの会社は突き付けてくる。

 

自分を売り込む仕方や外面の整い方は教えてくれる。

だが、基本的な会話は教えてくれない。

それはすでに身に着けていると前提だからだ。

彼を直接面倒見ている先輩は、彼の怖さを知っているからお客と一対一で会話させることをさせない。

つまり、業務でも学ぶ機会はもらえない。

そう、彼はもう詰んでいる。

教わる場が無いからだ。

といっても、まだ挽回できることはできる。

まだ世間知らずなことをしても許される。

怒られるかもしれないが、その後に教えてくれる人たちが回りにいる。

だから、詰んではいるけど、それを無理やりこじ開けて学ぶしか彼にはやり方が残されていない。

私はそれを見守ることしかできないが。

刺激のない日々に慣れたほうが人生はより豊かになる

コロナの第5波が収まり、都内感染者が100人前後だった年末年始(年始には200人を超えていたが)に社会人の仮面を脱ぎ捨てた私は、仕事という呪縛により日本各地に散らばった地元の友人たちが久しぶりに集う忘年会に連日連夜参加していた。

あまりに色んなグループへと顔を出してはお酒を酌み交わしていたため、時の流れの速さよりもお金の減り具合のほうが1万倍速く年始早々発狂しそうになったが、年に数回しか会えない友人たちと楽しく時を過ごせるのは、決してお金には変えられないプライスレスな時間であった。

無事三が日が過ぎてまたいつも通りの日常が戻ってきた。(幸い年末年始に遊びまくった友人たちから体調の不良は聞かない。)

が、まだそれから1ヶ月も経とうとしないのに、毎日がつまらない。

年末年始があまりにも楽しすぎたのか、週5で働いて土日は家にいるかカフェにいるかの普段の日常があまりにも無味乾燥でとても苦痛だ。

仕事終わりにも休日にも晩御飯を作るのも億劫。

年始にパソコンを新調したのにパソコンに触れるのも億劫。

年末年始にボコボコにやられた米国株の含み損を眺めるのも億劫。

だからといってソファに寝っ転がりながらスマホを弄るだけでは本当に腐りそうだから、ここ数日はもっぱら読書をして過ごしている。

その中で半年くらい積読状態だった本を思い出して読み始めた。


それが「迷いを断つためのストア哲学」だった。

ストア哲学とは、古代ギリシアで生まれたゼノンを学祖とする実践的な哲学だ。

要は、自分でコントロールできるものとコントロールできないものと分けて人生を楽しく幸せにしようという哲学だ。

本のタイトルにあるように「迷い」、例えば自分ではどうしようもできない不安や悩みを不用意に抱えないようにするためにとても役に立つ哲学である。

しかし、日々無味乾燥な砂漠状態の日常を送る自分は考えた。

ストア哲学は人生を豊かにするための哲学だ。本のタイトルにある「迷い」を無くすためだけのものではい。

自分のように無菌部屋に過ごすような刺激のない生活も、ストア哲学を取り入れれば楽しい生活にできるのではないか。

また、今の自分には楽しい生活にするのにも2通りの方法があるのではないか。

何も刺激がないと思われる生活も、視点を変えるだけで実は様々な刺激ある生活へと変えられる方法。

もう一つが、このブログ記事のタイトル通り、刺激のない生活を悲観せずに慣れる方法。

ストア哲学では自分でコントロールできるものとできないものへと分けることで「アタラクシア」、心の平静を獲得できるとされる。

つまり、視点を変えて刺激ある日々にするよりも、刺激のない毎日でも、脱出ゲーム映画にでるようなホワイトキューブの空間でもつまらないからといって発狂しないようストア哲学を実践して心の平静を取り入れたほうが良いのではないか。

 

そこで私は実践してみた。となるのがブログの鉄則だが、これを考えたのはついさっき5分前のことだ。

そもそも刺激ある毎日のほうが心が疲れる。

それに現代の刺激ある生活はたいていお金がかかる。現に年末年始のように。

それならば、コロナ禍で少し窮屈な生活を強いられるような今の時代でも不平不満を持たないような心にしたほうが絶対に良い。

では、刺激のない毎日でも豊かに生活する方法とはなにか。

まず一つ考えられるのが、世の中で賞賛されている映像作品を観ること。

ネットフリックスやプライムビデオ、YouTubeなど、それほどお金がかからなくても世界中が絶賛した作品を余すことなく観ることができる。

そして作品から得られた感動は、スマホ一つで世界とシェアすることができる。

ドキュメンタリー作品を観たならば、自分が感じた感情や主張をこれまた世界の人々と共有をして知識、教養のアップデートを図ることができる。

また、本だってそうだ。

幸い自分は刺激のない日々でも本は読んでいた。

このように様々な作品を様々な媒体から得られることは、自分でコントロールできる範疇にある。

上記の実践方法もなにもしないで嘆くよりは、自発的に行動しているといえるだろう。

そして気が向いたらまたこのブログを開いて記事を書いてみるのもいいかもしれない。

 

ゆっくり落ちるハネつき果実

自由研究。

各個々人がそれぞれの想像力と探求心に全力の力を注力して取り掛かる課題。

私個人的にはあまり好きではなかった。

計算ドリルなどの決まった問題、決まった答えがある課題は、夏休み突入早々に取り掛かって終わらすことはできた。

しかし、自由研究はそうもいかなかった。

自分で課題を見つけないといけないからだ。

だから、自由研究に取り掛かるのも8月の半ばから終わりにかけてであった。

そんな苦手な自由研究でも、一回だけクラスメイトたちに脚光を浴びた作品(?)を提出したことがあった。

 

小学5年生の頃、夏休みに突入して漢字ドリルやさまざまな教科のプリント問題集を7月中に終わらすことができた自分は、友達と遊んだり所属していた少年野球団の練習に明け暮れていた。

もちろん自由研究もあったが、それはとりあえず頭から忘れることにしていた。

とはいっても夏休みの終わりは刻一刻と迫っていた。

いやーどうしよう。ネタが思いつかない。

ポーカーフェイスの自分は全く焦りの表情は見せずにいたが、内心とてもヤバい心情だった。

母も自分が宿題一式終わらせたことは知っていた。もちろん自由研究には手を出してないことも知っていた。

もう8月も終わりに近づいてきたとき、そんな母が自由研究にと、どこからか仕入れてきたネタを渡してくれた。

「これとか自由研究にどう?」

手渡されたのはプリント2枚とペラペラの発泡スチロールのような紙。

そのプリントを読んでみると内容は「ハネのついた植物の種子」についてだった。

ふむふむなるほど、カエデという植物は種をより遠くに飛んでいくようにと翼果(よくか)と呼ばれるハネがついた果実を実らせるという。

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そしてペラペラの発泡スチロールのような紙は、これを使ってカエデの種を再現してみようというものか。

説明用の紙があり、それを実演することができるグッズまでついた神のような自由研究セット。

いやしかし、自由研究の品は大抵の場合、教室の後ろにあるロッカーの上に飾られるものだ。

自作した説明用の大きい方眼紙と、ペラペラの実演用ハネつき種を置いたところでインパクトは弱い。

はじめ自分は渋った。これを提出しても評価は低いのでは。

だが、もはや自分には選択する時間などない。

そもそもネタが思いつかない自分にそんなわがままを言う権利などないのだ。

とにかく文具屋で購入した大きい方眼紙に説明用のプリントを大きな字で書きうつす。

そしてハネつきの果実を作る。

たった半日の作業であった。

自由研究の課題探しに焦ったわりには、取り掛かったらすぐに終えてしまった。

 

9月になり、学校へと登校して課題一式を先生へと渡した。

そして自分の予想通り、自由研究の品は教室の後ろへと置くことになった。

パッと見自分の研究は方眼紙一枚だけに見えるが仕方ない。

これで自由研究はおしまい。

そう思ったのも束の間、なんと自由研究の発表会を行うことになった。

待て聞いてない。今までそんなことしてこなかったぞ。

だが発表会と言っても6つある各班の1人がそれぞれ同時に教室内で発表して、残りの人は自由に聴き回るといったものだった。

せっかく作ったハネつき果実を使わないのももったいない。

仕方なく方眼紙の説明を話してから最後、ハネつき果実を天井まで放り投げてひらひらとプロペラのように回って落ちてゆくデモンストレーションをした。

「おおっ!!」

それが意外とウケた。

「もう一回やって!」

なんとアンコールまでいただいた。

また天井まで投げてゆっくり落ちてゆく果実。

評判を聞きつけてか先生までやってきた。

「おお、すごいね!」

女性の若い先生(自称18才)はそう褒めてくれた。

クラスメイトの意外な高評価に自分はとても驚いた。

そして自分の自由研究アレルギーも、そのハネつき果実のおかげで身体からゆっくりと消えていった。

 

今週のお題「自由研究」

インターネットは友人であり、先生でもあり、悪友でもあった。

「あなたにとってインターネットとはどんな存在ですか?」

はてなブログのトップ画面を開くとすぐに飛び込んできたこの言葉を愚直に考えみた。

 

インターネットは、自分にとって友人であり、先生でもあり、ときには悪友でもあった。

初めて自分から能動的にインターネットに触れたのは、小学生半ばの頃だった。

その頃世の中で流行っていたのが、GREEやモバゲーといったひと昔前のSNSだ。

はてな界隈の方々に比べたらとても浅いインターネット歴だと思うが、それでもインターネットと自分は切り離せられないほど、自分の人格形成に大きく影響を与えてもらっている。

 

小学生から中学生の間は、インターネットを通じて多くの友人を作った。

モバゲーで同学年の小学生が集まるサークルに加入し、そこでたわいもないことをよく話した。

直接会ったこともなければ、顔も見たこともない(推定)同い年の彼らは、アバターを通して話しているととてもカッコよく、少し大人びた言葉回しに憧れも抱いた。

今思い返せば、彼らのカッコよく見えていたセリフや言葉回しは、少し時期の早い頃に発症した中二病の症状だったのだろう。

その影響もあったのか、自分も学校の中では少し大人びて見えていたと今の友人は語ってくれる。

また、インターネットがあれば友人という存在も国境を超えることができた。

スマホを手に入れた中学生の自分は、全世界の人々とつながることもできるアプリを通じて、韓国やオーストラリアの人たちと文通まがいの交流もあった。

スマホで歴史の"真実"に触れてしまい、ネトウヨになりかけていたタイミングで韓国や多くの海外の人々とつながることができたのは、自分にとってとても良かったことだと思う。

おかげでネトウヨにならずに済んだ。

 

高校生になってからは、スマホゲームで遊ぶことも多くなったが、受験では先生にもなってくれた。

まだ自分が受験生の頃は今ほど洗練された学習アプリやYouTubeに質の良い動画教材はあまりなかった。

しかし、それでも簡素な英単語アプリやリスニング対策用のポッドキャストが存在してくれたおかげで、自分の受験勉強の助けにもなってくれた。

ただ正直、すきま時間にスマホで勉強は危ない。

少し指をタップさせれば楽しい楽しいYouTubeが見れるのだから。

すぐにインターネットは楽しいことへと誘う悪友になってしまう。

晴れて大学生になってからもインターネットは先生として付き合ってくれた。

通学中は英語のNHKニュースを聴き、スマホで課題をしたり、インターネットはまさに学習のためのツールとして使い倒した。

 

だが、大学生にとってインターネットとは、自らのパリピ具合を周りへアピールするための道具へとも成り代わった。

TwitterInstagramでは自分がいかに学生生活を楽しんでいるのか、どれほど学生らしいバカなことをしているのか、皆が争うようにストーリーを上げる。

自分ははじめその承認欲求の塊を見るのが嫌で、Instagramスマホにインストールしていなかった。

そんなに自分をアピールしてなにになるんだ...

数か月後、Instagramをインストールしている自分がいた。

日常に現れる一瞬の輝きをカメラに捉え、デコデコに加工した写真をウィットに富んだコメントと一緒にストーリーにあげる。

まさか自分がそんなことをするようになるなんて...

これはまさに悪友にタバコ吸ってみろよと言われてしぶしぶ吸うものの、気がつけば自分も立派なスモーカーへとなってしまうアレだ...

しかし、今はもうそんな承認欲求は無い。ほどほどにSNSと付き合っている。

 

社会人になった今、インターネットはより混沌なものとして目に映る。

正しくリテラシーを持って付き合えば、自分にとって楽しく、そして幸福になるものとして使うことができる。

しかし、自分の怒りや欲望だけの気持ちで付き合うと、インターネットは自分の思想や気持ちを悪い方へと導く悪友となってしまう。

インターネットに書かれているものが何が正しくて正しくないのか、その指針が上手く見えない中、自分は今までインターネットで培ってきた経験を基に上手く付き合ってきたい。

 

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

新生活は切れ味抜群の包丁とともに

つい半年前に新居へ越して新生活を送った(?)自分からしたらピッタリなテーマの記事だ。

 

新生活を送る上で大切なことは何か。

それは健康な精神と身体だ。

新しい環境や生活を過ごすとなるとはじめはタフな精神が無ければすぐに体調や精神を崩してしまう。

では健康な身体を保つためにはどのようにすればよいか。

それはバランスのとれた質の良い食事をすることだ。

毎日毎食キチンとした食事をすることで、自然と心と身体両方に良い影響を与えるのは明白なことである。

そこで今回は快適な自炊をするためには欠かせない、また快適な新生活を送るためにも大事な逸品を紹介したいと思う。

 

タイトルからして切れ味の良い包丁を紹介するかと思われるが、どんなに高い包丁を買ったって毎日使用するうちに切れ味は悪くなる。

自分も新居へ越してきたときに良い包丁を求めて購入した。

はじめは切れ味の良さに惚れ惚れしていたが、やはり数か月もしたら切れ味に陰りが見えてきた。

鶏肉を切るときや大根の皮を剥くとき、なにかと刃が食材に引っかかる。

これはいずれ指をやってしまう...そう未来を暗示しながら恐々と暮らしていたことを思い出す。

しかし楽しい自炊をするためには切れ味の良い包丁じゃないとダメだ!

よしまた包丁を買おう!ではなく、すぐにAmazonで包丁研ぎを検索した。

そこで簡単かつお安いお値段でレビューも良い、しかもジャパンメーカーの包丁研ぎを見つけてしまった。

それがこちらの貝印シャープナー。なるほど包丁研ぎのことをシャープナーと呼ぶのか。

包丁研ぎのイメージといえば四角い石があって、包丁をその上で斜めにしてシャッシャッとやる、まるで職人のような手作業を思い浮かぶだろう。

しかし、この貝印のシャープナーは違う。

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まるで未来。

蒸気機関車リニアモーターカーぐらい違う。

これで一体どうやって包丁を研ぐのかというと、まずはシュッと黒い部分を出す。

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そしてここからは簡単3STEPで切れ味抜群の包丁を作り出すことができる。

黒い本体に3つの切れ込みがあって、右から順に1の切れ込みに10回、2の切れ込みにも10回、最後の3の切れ込みに5回包丁を根本から入れて手前へ引く。

たったこれだけである。

これだけでボロボロの刃先が綺麗な状態へと元通りになる。

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 (早く包丁を研ぎた過ぎて研ぐ前のボロボロの状態を撮るの忘れてしまった...)

この3つの切れ込みにはそれぞれ違う種類の砥石が入っている。

そのため、1、2、3の順番にはしっかりとした意味がある。

  1. 摩耗した刃先を削り取る
  2. 刃先をさらに薄く削る
  3. 仕上げに刃先を滑らかに削り整える

それぞれ10回、10回、5回包丁を挿して引くだけ、余分な力はいらない。ただ真っ直ぐ引くこと。

簡単かつ安全にできるから小学生のお子さんにも出来てしまう。(注意の目配りはしよう)

研いだその晩にご飯の準備で鶏のささ身を切ったとき、正直声が出てしまった。

いや指を切ったのではなくささ身が滑らかに切れてしまってだ。

また包丁の切れ味は食材の味にも影響を与えるのはご存知だろうか。

簡単に言うと切れ味が悪い包丁で食材を切ると旨味が低下して苦味が増加する。

反対に切れ味の良い包丁で食材を切るとその逆で、旨味は保たれて苦味が低下する。

包丁の切れ味と美味しさの秘密|貝印包丁サイト

つまり切れ味の悪い包丁で調理するということは、たとえ新鮮な食材を使用してもまるで購入から1,2週間経った食材を使用しているのと同じようなものということだ。なんと残酷なことなのか....

包丁の刃先だけで食事の美味しさ、楽しさ、調理の安全さに影響を与えるのなら、きっと皆さんも包丁を研がずにはいられないだろう... 

 

#新生活が捗る逸品